部屋に日が差すのと同時に朝目を覚ます。歯磨きをして、着替えを済ませ、家族や恋人にいってらっしゃいのひとこと。
そこから清き1日がはじまる。21世紀の日本に住む人間からしたら当たり前かもしれないけど、この常識が全く通じない時代が日本にも昔あった。
それはいまから200年前とかいうはるか昔にあった歴史で習う時代ではない。
いまから100年しない前、日本はまさに戦争真っ只中であった。
そんなことは誰もが知ってることだろうけど、いざその状況を目の当たりにできるとすれば、その言葉の重さが急に重くなる。
さぁ「野火」を語ろう。
すべては生き残るために。
僕は1990年代に生まれで、両親はまさにバブル世代。
ちょうど戦争を経験した人と実際に接することができる最後の世代などと言われてきた。
実際に僕の祖母のおじさんは沖縄で亡くなってるみたいで、何度も昔の写真を幼い頃に見せられたのをいまでも覚えている。
日々の生活でアホみたいに映画を見ていると、昔の戦争の実態を描いた映画を観たりする。
戦争を描く映画がある中で、僕が戦争映画を見るとき、その作品がどれだけ事実に忠実に描かれているかに重点を置いている。
例えば、1976年に公開されたオリバー・ストーン監督「プラトーン」は僕の中でお気に入りの一本である。
観たことある方はよくわかるだろうが、あれほどむごくて、観ていられないほど、人間臭さや信じられない光景が続く映画は無いと思う。
あれほど人間を嫌いになったことはないし、それまでの戦争に関しての固定概念が僕の中で一気に崩れ落ちたのを、当時高校生だった僕のあの感覚は、いまでも忘れない。
映画の役割は色々あるけど、ひとつは後世に残すべき何かを映画を通じて伝えること。
戦争はあれほど酷くて、目を塞ぎたくなるんだよ、と直感として体感しないとダメなのだ。
だがら、スピルバーグの「プライベートライアン」は映画感丸出しで好きじゃないし、コッポラの「地獄の黙示録」はぐっちゃぐっちゃで何をしたかったのかわからないから好きじゃない。
これまで「プラトーン」を超える戦争映画(ここでは楽しむ戦争映画ではなく、実態を伝える意味での戦争映画という定義にしよう)はない。
ここではキューブリックの「フルメタルジャケット」や「アメリカンスナイパー」のような、戦争とPTSDの因果関係を説く映画はまた別の議論になるので除外しよう。
そんな観点で戦争映画を観ると、本作野火は素晴らしいじゃ収まらないレベルの映画である。
やっとここでこの映画の話が出てくるが、これまでの長ったらしい導入がやっと生きてくるのだ。
生きてる人間にウジ虫が集り、生きてるのに死臭が漂ってくる。
お風呂など最後にいつ入ったか覚えてない。
ツヤのある日本人の美しい小麦色の肌は、真っ黒に日焼けしたのか、泥がこびりついているのかわからないが、変色している。
そして食べるものがない。
毎日パン1斤さえも食べることができない。
塩があるとみんなこぞってたかりだす。
お芋が日本から支給されてるはずなのに、全く来ない。
食べるものがとにかくない。
支給品が届かなく、飢餓な日本兵は豚肉を食べる感覚でついに人肉へ手を出す。
同じ人間だがら、食べるのにとても抵抗あるだとか、感情のある人間を食べるのはかわいそうだからなどといった理由など一切通じないのだ。
俺らは明日生きてるかもわからない。
常にお腹を空かせ、食料を求めて森をさまよう。
戦争どころなんかではなく、明日を生き延びる方法を必死で考えるのだ。
その結果人によっては、いい日和のときに爆弾を口の中で爆発させるものもいれば、銃口を口にねじ込み一発バン!と楽に死ぬ方法を選ぶ人もいる。
いまの日本の社会からすれば、映画の世界だし、フィクションでしかない。
ただ本作は実際に戦争を経験した人の文章をベースに塚本監督自身が長年をかけ、徹底的に調べ上げた賜物が、映像として90分に凝縮されている。
たしかに人肉を食べるシーンや、ウジ虫が生きている人間をほじくる痛々しいシーンは多い。
ただ本作を観ることが、本当の意味での戦争をこの21世紀の現代に知ることに直結してくる話だし、インパクトはものすごい。
作られた戦争映画を見て、あぁ戦争とはこんな感じかと感じるのではなく、一種の社会勉強として、映像から戦争というものの全体像を掴むのも必要である。
そういう観点から本作を評価すると、日本人がいま観なくてはいけない作品のひとつになることは間違いない。
びぇ!