こんちくわ!Shygon です!
今回は設定が不めちゃくちゃなSF恋愛映画
ロブスター
について熱く語りたいと思います!
2015年に公開した本作は、独り身はパートナーを探さないと動物に変わってしまうという近未来を描いたSFラブストーリー映画。
本作はカンヌ映画祭で審査員賞を受賞し、「女王陛下のお気に入り」のヨルゴス・ランティモス監督の初英語作品。
サクッとあらすじ
家庭を持ち、子孫を残すことが義務付けられた近未来。妻に捨てられてしまった男デイヴィッドは街のルールに従い、はずれにあるホテルへと送られる。
そこでは45日以内に自分の配偶者となる人を見つけなければならず、見つけられなかった場合は動物に姿を変えられてしまうという運命が待っていた。
(Wikipediaより抜粋)
意外に変人映画には豪華キャストが集結する
ギリシャ出身ヨルゴス・ランティモス監督が監督&共同脚本を務めました。脚本にヨルゴス監督と執筆することで知られるエフティミス・フィリップ。
ヨルゴス監督の初英語作品ながら、ギリシャ、フランス、アイルランド、オランダ、イギリスの合作です。
キャストも世界的に有名な俳優陣がごっそり集まり、上記の5カ国出身の俳優たちがメインです。
デビット
主人公の中年メガネ。離婚を機に、ホテルに移動。数年前に兄ボブが犬になり、彼と行動する。
アイルランド出身のコリン・ファレルが演じました。ファンタビ2や「妻たちの落とし前」などに出演。
近視の女
そのまま近視の黒髪女。
イギリス出身のレイチェル・ワイズが演じます。アカデミー助演女優賞を受賞した「ナイロビの蜂」やヨルゴス監督作品の「女王陛下のお気に入り」などに出演。
その他にもフランスを代表する女優レア・セドゥ、ベン・ウジョフォー、ジョン・C・レイリー、オリビア・コールマンなど無駄に有名俳優が大集結。
オリビア・コールマンはヨルゴス監督の最高傑作「女王陛下のお気に入り」に主演し、世界中の映画祭で女優賞を総ナメしました。
全て理解不能 そんなSFラブストーリー
車を運転するひとりの中年女性がいきなり牧場で足を止める。牧場にいた牛を撃つが、車のワイパーは気にかけることなく動き続ける。
そんな衝撃的なオープニングからこのイカれた映画ははじまった。
はっきり言って理解が出来ない。人間として生きる中で誰もが知る常識というものがあり、映画を作る場合でもその枠組みから外れることはほぼない。
しかし、本作は全てが最初からぶっ飛んでいる。独り身は45日以内にパートナーを見つけられないと動物に姿を変えられてしまう意味不明の設定。
それだけでなく、意味深な会話や主人公たちの一見感情が全くない人物像。この映画に登場する全てが変。
どういう生活をしたら、こんな世界観のもと映画を撮ることができるのか理解に苦しむが、逆にこんな映画はこれまで見たことがない。
素直に受け入れられない会話集をいくつか挙げてみた。
主人公デビットが離婚し、45日間の婚活がスタート前にいくつか質問をされる。
"犬はいますか?"
と聞かれる。
"はい。"
というと続けて、
"数年ほど前に兄が来ました。"
"覚えていらっしゃるでしょうか?"
"中年中肉48歳、ブロンドヘアーの"
"いいえ。"
"覚えいません"
は?は?は?は?そんな会話どういう状況だったらするのか知りたい。意味のわからない価値観の持った世界に投げ込まれ、理解するのに時間はかかります。
次にこんなシーンがある。
"ホテル内での自慰行為は禁止されています"
"どんな写真で自慰行為を?"
と事務員が質問をする。
"ならば罰としてトースターで手を焼いてもらいます。"
"そんな奇妙な会話を朝ごはんをみんなで食べているときにするのです"
はじめの設定が訳がわからないので、はじめはそんな世界観に困惑するも、なぜか不思議なことに徐々に慣れてきてしまう。
そんな調子で2時間続く訳だが、最後見終わったときははじめの感触とはまるで違うものだったのです。
奇妙なSF恋愛映画からみえる人間の死後
最後の日を迎えたツヤツヤの髪が特徴の若い女性は「スタンドバイミー」を見ることを選んだ。
人それぞれ人生があり、様々な終わり方がある。たとえそれが人間である最後だとしても、また違った世界でその人の意思は生き続ける。
本作は離婚した人間は再びパートナーを期限内に探さない限り、動物に姿を変えられてしまうという設定の映画である。
そこに生きる彼らは離婚するだけで、人生に終わりを迎える可能性がある。人間でさえいつその人生に終わりが来るのか誰もわからない。
僕はこの映画を見てひとつ思ったことがある。人間はその命が尽きるとこの世からは永遠消えてしまう。
そんな死後の世界を人々は想像しようとしてしまう。転生転生だったり、教会に神に祈りを捧げたり、自身の信条を身を任せ、自由に思い込みをする。
そんな目に見えない確証できない世界を、本作は代弁しているように見える。動物に姿を変えられるという人間としての終わりが鮮明にわかる中で、人々に問う。
どう自分の人生を終わらせるのか、どうその時まで生きるのか。本作では人間としての死を肯定的に描いているようで、だからこそその終わり方について感じ、考えることが必要だと言っているような気がする。
設定が一見めちゃくちゃで、なんで想像の幅がこんなに広いのかと思ってしまう。
誰がこんな設定のフィクション物語を映画にしようと言い出し、いいね!とこの企画が動き出したのか理解不可能に思える。
ただこんな設定でも間接的にいまの世の中の仕組みを捉え、1番大事な本質的ななにかを実にじっかりと捉えているようにも思えてしまう。
その本質的ななにかが実際になにかはわからないけど、そんな感じがなぜかする。本作は普通の映画ではないので、それを見てどう感じるかは個人の自由だし、勝手に想像してね。と言わんばかりに好き勝手に映画を撮っているように思える。
もちろん、人間としての死と動物になるということは必ずしも一緒ではないように思えるが、後半になるにつれ、もう訳が分からなくなる。
正直ここまでツラツラ書いてきたが、この映画を自分の中でどう結論付けよう。
いまだにわからない。
本作は大衆受けでは絶対ないし、映画好きの中でも見る人は限られてくるし、その中でも好き嫌い別れると思う。
映画として明確な結論付けをしていないし、スッキリした終わり方でもない。でもそんな映画を作るのが1番難しいし、このモヤモヤを良いと感じる映画なんだと思う。
この文章がしっかりまとまっていなく、ぐちゃぐちゃなように本作もぐちゃぐちゃで四方八方にバラバラに飛び散っている。
でも僕のこの文章と本作の違いは、ぐちゃぐちゃでバラバラに見えるけど、実はまとまっている感だ。
映画としてしっかり着地点がある。たとえそれを見て理解できなくても、すっとその意味深感が頭に入ってきている。
そんなところの差が文章の下手な僕と映画監督ヨルゴスランティモスの差なんだと思う。
びぇ!