こんちくわ!Shygonです!
今回はイランの一風変わった日常を描く映画
風が吹くまま
について熱く語りたいと思います!
1999年に製作された本作は、2000年代(日本などの主要国の公開日は2000年初頭なため)を代表する素晴らしい作品のひとつと賛美されるほど世界的に認知度の高い作品。
イランが誇る巨匠アッバス・キアロスタミが監督脚本製作を務め、イランのクルド人村の奇妙な葬式に潜入するテレビプロデューサーを描く。
あらすじ
「風が吹くまま (باد ما را خواهد برد)」
イラン北部の田舎町。
クルド人村では、人が亡くなると独特の葬儀が開かれると、首都テヘランからジャーナリストが取材にくるのだった。
死に直面したお婆ちゃんの葬式を取材するはずが、体調が急に良くなり、ジャーナリストたちは田舎町で途方に暮れてしまう。
電話をするために、丘の上までわざわざ行かないといけないほど、電波の悪い田舎町に滞在すること2週間。
ついにシビレをきたしたジャーナリスト ベーザードは散々とした街を散策しはじめるが‥
キアロスタミ監督が描く生と死
ヴェネツィア国際映画祭でグランプリに輝くなど、キアロスタミ監督のすべてが詰まった集大成の映画。
原題"The Wind Will Carry Us"はイラン詩人ファロウグ・ファログハッドの同名詩から名付けられた。
アッバス・キアロスタミ監督は「コケールトリロジー」3部作で評価されると、前作「桜桃の味」ではパルム・ドールを受賞しました。
2016年に亡くなるまで、日本でも映画を撮影するなど、晩年までアジアを代表する巨匠として、影響を与えた。
キアロスタミ監督の特徴はイランの日常をドキュメンタリータッチで描くのに長けています。
小津安二郎監督の大ファンであり、彼の作品の至るところで小津調の傾向が見受けられることでも有名。
クルド人村の日常を覗いてみる。
イラン出身のアッバス・キアロスタミ監督は自身の故郷イランを舞台に数多くの映画をこれまで撮ってきました。
首都テヘランを舞台に、自殺することを決めた男のシュールなドラマやカルピ海に位置するまどかな村コケールを舞台に男の子の日常を切り取ったり‥
日本をはじめ海外を舞台に映画を撮ることはあっても、自国イランの日常生活に存在するイランの魅力を常に切り取り描いてきたのですら、
本作でキアロスタミ監督が選んだのはイラン北部のクルド人村。
首都テヘランから来るジャーナリストたちは、まるでその田舎町をはじめから見下しているような目つきに、その不便さを毛嫌いしている態度があらわに映される。
ただ目の前に広がる、ありきたりの日常を当たり前のように描く。だから映画として、起承転結がはっきり別れてて、ストーリー性が必ずしも存在しない。
どの家庭にも存在するような夫婦間の喧嘩から幼い少年たちの日常まで誰もが一度話経験してきたことをただ切り取っているように見えてしまう。
例えば、街はずれのカフェでの会話。
カフェのオーナーをする中年女性がある些細なことで村の男性と口喧嘩を始めてしまう。
女性の仕事についていちゃもんをつけられた気の強いオーナーはシュールな返しを見事に決める。
"女の役目は3つ。"
"昼は家事"
"夕方はカフェ"
"夜は共同作業"
ジョークを混ぜ込んだアタックに男性諸君はたちまちキレはじめる。
"おれは刈り入れでグッタリれ"
"一日中汗水垂らして働いている!"
"それに比べてお前は珈琲入れてるだけだろ!"
もう怒りは頂点に。引き返せないオーナーはすぐさまジャブを入れ返す。
"じゃあ私がぐうたらしてるって?"
"ふざけるんじゃないわよ!"
喧嘩になると理性が効かなくなる女性オーナー。まだ論理的にことを進める農夫。
"女には3つ!男にも3つ!"
"3番目が1番体を使うんだよ!"
などとまるで生産性のないふざけた会話をダラダラ続けること10数分。
無駄な修羅場を遠目から見ていたジャーナリストはその場を後にする。
そんな一見生産性のないくだらない話にも映画のワンシーンとして、飽きさせないトリックと計算された尺。
アッバスキアロスタミが遺したもの
イラン国内に留まらず、世界的に置き土産を残し、2016年アッバス・キアロスタミ監督はこの世を去った。
一部の人は言うだろう。映画として、ストーリー性がなくて、起承転結がまるでない。見ていて眠くなる。
一通り彼の残したマスターピースを見てきた僕が思う彼の偉業。
同世代の映画でいうと、トリアーみたいに新しい映画への考え方を世界に広めた訳でもないし、たった一本の映画だけで、これまでのSFへの陳腐のイメージを払拭したルーカスみたいな見える偉業を成し遂げた訳でもない。
ただひとつだけ、いまの僕から言えることがあるとしたら、映画の決まった枠組みというものを彼は一生かけて取り壊そうとしたのだと思う。
2時間という決まった枠組みで納得するようなわかりやすい構成や、観客を飽きさせないようにアクションシーンを10分毎に入れよというルールみたく、膨大に計算された緻密なカットやシーンに囚われることなく、時間を忘れて、映画だということを忘れて、ただ人の人生を追っかけれるという体験。
RPGのゲームのように、誰かの人生を切り取って、あたかも自分がその人の人生に入り込んでいるような錯覚は他の計算された映画では感じられない。
彼の作品はみる人を選ぶし、みる人も選ぶのだと思う。
興味のない人はここからどけ!と死んだ後でも必死に豪語するように語りかける彼の怖ヅラはこれからも消え去ることはない。
びぇ!